『スローターハウス5』カート・ヴォネガット・ジュニア

先週、らがあ宅で例によっての映像編集会議を行った。そこでの会議は時間が短かったこともあり、編集そのものを行うことはできず、どちらかといえば映像を通してのイメージ共有のようなものに時間を費やした形である。ただ、私にとって幸いだったのが、らがあがこれまで撮り貯めたインタビュー映像をまとめて観ることができたということである。
映像の中で特に印象に残ったのが圏央道計画反対運動の立役者的存在であったというMさん、彼の演説やその葬儀の様子*1を映したものだ。奥様のお話からその姿は何となく想像していたものの、「百聞は何とやら」というやつで、映像を見るとやはり色々と感じ入るものがある。彼が亡くなった後、反対運動がどのような道を辿ったのか、また現在の道路工事がどこまで進んでしまっているのか、その現実と重ね合わせると何と言うか・・・、まぁよい。

神よ願わくばわたしに
変えることのできない物事を受け入れる落ち着きと
変えることの出来る物事を変える勇気と
その違いを常に見分ける知恵とをさずけたまえ

これは上の『スローターハウス5』の作中で使われる言葉で、あの小説の破滅的なようでどこか笑いを誘う展開と相まって初読時の私はそれに妙な感動を覚えたものだった。確かこの言葉はヴォネガットの創作でなく、世界大戦中にアメリカに実在した神学者がクリスマスカードに記したもので、その神学者は前線のアメリカ兵たちを鼓舞することを意図していたらしい、そんな話を聞いたことがある。つまり、引用であり、しかも字面通りの美しいものではないと。そんなフレーズを選ぶ辺り実にヴォネガットらしいと思うけれど、ま、今はそれはさておいて、深読みは致しません。
何故、私がこの言葉を引き合いに出したかというと、Mさんにとっての「変えることの出来るもの」、少なくとも彼がそう信じていたものを彼の映像から何となく知らされたような気がしたからである。そして、彼が信じていたその「変えることの出来るもの」は私が勝手に想像していたもの、つまり「この辺りまでは何とかなるんじゃないのか」と踏んでいたものとは相当の隔たりがあるのだろうなと気付かされたのだ。これは私にとって非常にショッキングなことであった。
(この問題、来週に続く)

*1:これはもちろんらがあが撮ったものでなく関係者の方の好意によってお借りした映像を編集したものだ