拝啓、けいこちゃん。高尾に春が来たと思われ…

こんばんは、今宵もしたたか酔いどれラガーです。
今夜の話題は一昨日の晩、「風の集い」へ伺った折のことを記します。
「風の集い」とは、映画制作について素人の僕たちにイロハのイから教えて下さっている映像サークルで、毎月一回東京は早稲田にある「風まち喫茶」で開かれています。(HPURL:http://homepage2.nifty.com/lowposi/lp_kaze.html

以前も何度かこのブログで書いていますので、ご記憶の方もいらっしゃるかもしれません。僕たちは昨年の8月以来、毎月欠かさず出席し、教えを乞うているのですが、今月の風も、実に為になる内容となりました。

今月はジャパンヤンググリーンズ(以下「ヤングリ」)からだいごー(月曜ブログ担当者)と僕が出席、他に6名(内プロが3名)の出席者がありました。僕たちが持参した10分程度の「作品」(と言うより「イメージ」程度ですが…)を見て頂いたのですが、その中で最も議論に挙げられたのが、映画の中における僕たちの「立ち位置」です。

僕たちはこれまで、「映画の中には自分たちの姿は極力登場させない」という方針で取材・編集を重ねてきました。しかし、作品を見て下さった6名全員が「なんで君たち自身をそんなに隠す必要があるの??」という疑問を抱かれたようです。例えば、次のようなことを指摘されました。
「素人なのにそこまで映画を撮ることに一生懸命になっている君たちにこそ興味が沸く」
「学生がする取材相手とのぎこちない、もっと言えば幼稚なやり取りこそ、見ている方にとっては興味をそそられる場面じゃないか」等々。

それらの言葉は、一つ一つ尤もなことで「そういう人もいるかもなぁ」と考えさせてはくれましたが、しかし、僕たちにとって(少なくとも僕にとって)は、今までのスタンスを変える程には心動かす言葉では無かったというのが、正直な感想でした。と言うのも、僕は「一人称」で映画を制作することに元々関心が無いからです。

「一人称」、すなわち「僕はかくかくしかじか思った」とか、「私はほにゃららと感じた」といった類の映画は、それはそれで成功している作品もあるのかもしれませんが、僕にはどうしても魅力があるとは思えないのです。それは、小説の分野で「私小説」というものが昔流行りましたが、それに感じるのと同じ不快感を、「一人称映画」が僕に与えるからかもしれません。どうしても、「私は〜」とか「僕は〜」と、こう来られると、「そんなに”私”とか”僕”の感じ方って立派なの?」と反発を覚えてしまうのです。愚にも付かない「自分探し」をこれ見よがしに見せられているようで、「そういうことは一人でやって下さいね」とイヤミの一つでも言わせずには置かないマイナスパワーが秘めらている、というのが、僕が「反・一人称映画」を主張する原点です。

ただ、6名のご意見の中で、唯一、僕に宗旨替えを迫り得る力を秘めていると思われたご意見が、次のようなものでした。
「君たちが作品に登場すると言うことは売名行為でも何でも無い。そうではなくて、単に君たちと取材相手のやり取りが映像の中にあった方が、むしろ観客は作品に集中すると思うよ」と。
このご意見は、僕には実に重い響きを持ったものでした。どうしても自分たち自身が映画に登場すると言うことに対して、”いかがわしい”(それはつまり「売名」であり、「出たがり」であり、畢竟不要なこと)印象を拭えなかったのですが、むしろ僕たちが映画に登場することによって観客の集中力を増せる、となれば、大事の前の小事、逆に演出の範囲内で登場する必要があるのではないか、とも考えられます。

僕自身、この問いに対して答えはまだ出ていません。この疑問をどう結論したかは、この映画を実際にご覧になって頂くしか無いですね。(かなり無茶な我田引水です…)

何はともあれ、取材は着々進んでいます。先日裏高尾を訪れた際に梅の蕾が豊かにふくらみ、そろそろ花が開き始める時分かなと、思わず僕の頬もニッコリふくらんだのでした。その梅の木の下には、ふきのとうが土から顔を出しており、余寒が続く中にあっても、一歩一歩春が近付いていることを感じずにはいられませんでした。余談ですが、春先のふきのとうを天ぷらにして、ササっと塩をかけて食べるのは至福の瞬間ですよね。もちろん左手にはキンキンに冷えたラガービール

今年は裏高尾の春を満喫したいと思います。