環境倫理を云々と

オスカーです。しばらくのうちに、大分暖かくなってきました。春ですね。
最近、私は今の研究室の後始末の合間をぬって、4月以降の新しい研究の先行研究にいそしんでおります。大気化学から一転して、思想研究に移るために、少々ビビッています。
とりあえず、加藤尚武さんの『環境倫理学のすすめ』あたりで、イメージを膨らませていますが、彼の主張というのは、なかなか刺激的ですね。欧米における環境倫理の議論を、1.自然の生存権、2.世代間倫理、3.地球全体主義、の3つにまとめているのですが、その中で近代倫理の限界を指摘しております。
そして、封建的なシステムでは、世代間のバトンタッチという形の「通時的」な倫理ができているのに対して、民主主義のシステムでは、現在世代のニーズを満たすための「共時的」な倫理が働いていると彼は言います。すると、どうなるか?例えば、自由・平等といった概念が、近代倫理では重要になるわけですが、「他者への危害が生み出されない限り、個人は自由だ」という個人主義自由主義の原理が実際に応用できるためには、無限の空間が必要となり、平等という観念も、無限空間を想定しなければならなくなりますね。
確かに、こう説明されると、民主主義の理念を実現するためには、無限じゃなきゃだめだなぁ、と思えてきますね。でも、地球は有限なわけです。食糧・資源の枯渇が問題になるわけです。時代小説なんかを読んでいると、家や血の存続というのをものすごく重視していたことがよくわかるのですが、最近はそのような風潮はほとんどなくなりましたよね。そんなわけで、「世代間倫理」というのは単なるスローガンではなくて、近代主義への反省を視野に入れた、強烈な主張が裏に隠れているというわけです。
加藤尚武さんは保守主義の香りがしつつも、たんなる保守主義で終わらないあたりが魅力ですね。それで、近代批判や歴史学あたりをキーワードに、今は、内山節さんや、大御所の網野善彦さん、阿部謹也さんあたりを探っているところです。
網野史学はやはりすごいですね。「百姓=農民」という間違った認識によって描かれてきた、閉鎖的な中世の日本像を見事に刷新したのですから。襖や屏風の下地に使われていた資料を紐解くことで、昔の人々がかなり活発な商業活動をしていたこと、数多くの海路が利用されていたことを明らかにするというのは、本当にドラマチック。宮崎駿の「もののけ姫」は、そのあたりの歴史像を反映させた作品だったと知り、なるほと納得。あの映画も環境問題を考えさせられたなぁ。
阿部さんの歴史学も強烈です。日本とヨーロッパの違いをとことん突き詰めて、そして、その違いが「わかる」とはそもそもどういうことかを哲学的に突き詰めて、「ハーメルンの笛吹き男」を素材に、中世ヨーロッパの世界像を鮮やかに描いております。彼の著作は、まるで推理小説を読んでいるような気分にさせられます。
「過去」は実は可変的で、「未来」は動かしがたい部分が確実に存在する。そして、「現在」が定位される。でも、気候変動と資源争奪の問題は、何とかして対処したいですね。
住みやすい地球を、未来永劫残さなければ。

担当:オスカー