「地球環境問題」はどこにあるのか?

こんにちは、らがです。
地球規模で環境問題が深刻化していると言います。確かに、世界中で異常気象が進み、公害は国境を越え、温暖化はその発生に関係の無かった、小さな島々を海に沈めようとしています。これらの地球環境問題克服のためには、国境を越えた全人類的英知が求められています。確かにその通りです。しかし、私はここで立ち止まって、足元を見直してみたいと思うのです。迷った時は脚下照顧。
「地球規模」とか「国境を越えて」と言った時に、ではそのために「私」が出来ることはなんだろうと
問い直してみると、やはり「世界的な連帯」以前に、世界的な連帯を可能とするような、「国内の基盤整備」ではないでしょうか。基盤と言うのは、もちろんインフラの基盤だけではありません。法整備や、人心の調和、社会変革を可能とするだけの目標を掲げて、政官財一致で取り組める体制作りなど、多くの課題が山積しています。
私は世界的な連帯に対して、批判するつもりも無ければその有効性を疑うつもりもありません。ただ、私は国内であれ海外であれ、現場で動いている人の言葉だけを信じたいと思っています。地球環境問題を世界的課題としたのも、始めは、現場で汗を流し、涙を流し、血を流していた幾多の人々の姿があったからに違いありません。
かつての日、日本から図南の翼に乗って大陸に飛んだ宮崎滔天を始めとする革命浪人たちは、支那の窮状をその両の目で見たことがきっかけとなって、飽くなき革命への疾走を始めたのです。そのコスモポリタニズムは、平成の御世を生きる者達へもまた、太い水脈となって流れ続けています。
さて、ところでその「コスモポリタン」ですが、大辞泉によれば次のような意味があるようです。

1・ 国籍・民族などにとらわれず、世界的視野と行動力とをもつ人。世界人。国際人。また、そのようなさま。「―な感覚」
2・ 定住しないで、世界を放浪する人。
3・ コスモポリタニズムを信じる人。世界主義者

幸か不幸か、上の定義を見る限り私はコスモポリタンでは無いようです。私は自分の立論の出発点を、常に「日本」から始めています。私は自分を生み、育んでくれた故郷の重さ、堆積を噛み締めて今まで生きてきたし、またこれからもそうしていくだろうと思わずにはいられません。
水俣病を始めとする公害問題の第一人者である故宇井純先生は、2005年1月30日付けの朝日新聞で次のようなことを仰っておられます。

地球規模の環境問題の根本は局地の公害の集積ではないかと考えるようになった。これは私だけでなく、石弘之、飯島伸子といった第一線の研究者の共通な感想である。
(中略)お役人や政治家などから「地球環境問題には加害者も被害者もなく、国民一人一人の心がけが必要だ」などと説教されると、この現実を作ったのはお前らではないかと叫びたくなることも多い。

後段については今回は触れずに置くとして、前段に注目したいと思います。「地球規模の環境問題の根本は局地の公害の集積ではないか」。この言葉は、明治の曙光が日の本を照らしてより以来、全国各地で「局地的」といわれる公害問題と文字通り格闘してきた幾多の先人、また今この瞬間も闘い続けている全国の同憂同志を鼓舞して止まない言葉ではなかったでしょうか。

   僕が今見ているのが世界の片隅なのか 
   いくら探したってそんな所は無い               
              −THE BLUE HEARTS 「世界の真ん中」−

「局地的」、などと言われる場所は世界のどこにもありません。同様に、「地球的」などと言われる場所もどこにもあるはずがありません。「私」が見ている風景が、世界の全てです。遠くまで「地球的」課題を探しに行かずとも、自分自身の足元に「局地的」課題が山積しています。地球環境問題に国境が無いと言うことは、すなわち逆に言えば、地球環境問題は内にあるということです。内なる課題である、雄大なるヤマトの自然を破壊しての圏央道建設計画。
悠久に神々が遊ぶ大和島根の大地を、無骨な重機で蹂躙する愚行は、私たちが八王子市の「局地的」課題としてではなく、神武以来の日本史的課題として取り組もうとする問題なのです。