「正しさ」の渦に巻かれぬように

高尾山開発にかかる土地収用問題において、私は山に横穴を開けての道路建設に対して、やはり肯うことができないものを感じている。私は、「開発」か「自然保護」か、などという低次元の議論には与しない。そのようなイデオロギー的で、専断的で、没論理的な区分けが一体どこにあるというのか。単純二元論はうんこだ。
しかし、私が「高尾に穴を開けるのは間違っていると思う」と発言したとたんに、世間ではあちらこちらから、「それはエゴではないか」、「道路を作ること自体否定するのか」、「環境を破壊してきた人類がいまさら何を言うんだ」と、私を「ゴリゴリの環境派」と見做すのは一体どうしたことだろうか?
それは私自身の物言いが、常に舌足らずに終わっていると言うことも関係しているだろうが、それよりも、現在人々の思考の中に、「中立的=間違いはない」という構図があるからではないかと思うのだ。
そして、そうした立場は若い人々の間にこそ浸透している気がしてならない。
私は、究極的に人が純粋に中立的立場を取れるとは思わない。それは堯・舜ら古の聖人にこそ叶えども、私如き凡百の匹夫には到底及びもつかぬことではないか。私は、「中立的立場を意識」することはとても大切なことだと思っているが、結局のところ、人は何らかの決断を求められたときに、自らの発言なり、行動なりを「中立的立場を以て表明」すると言うことはできないと考える。決断の場面においてそういった発言をするのは、「責任逃れ」でしかないだろう。
私は高尾山への「トンネル建設工事」は、様々な観点から見て(その観点についての説明は措く)、中止すべきだと考えている。しかし、だからといって私はトンネル建設工事を進めようとしている者、賛成している者たちとの「対話」が不可能だとは些かも思わないし、逆にそういった異なる立場の者達とこそ、話をしたいという欲求が殊更強いのである。それは、私が自分自身の立場を「正義」だとか「正しさ」だとは間違っても規定していないためであると思っている。
私は「高尾にトンネルを掘る」という行為は「間違い」だと思うが、それを主張している自分が「正しい」とは考えない。逆に言えば、トンネル建設推進派の人々は、トンネルを掘るという行為が「正しい」ことだと思っても、決してそれを主張する自分自身を「正しい」とは考えないでほしい。ある一つの主張の「正しさ」と、ある人間の「正しさ」とは全く別の次元のことである。それは生きている限り、心しておきたいことである。
ニューヨークで起こった9.11以来、人々は「善」と「悪」を截然と切り離し、二元論的に話すことを極端に恐れている。それは知的態度として、また実践的営みとして誉められた態度であるだろう。真理は常に、中間にあるからだ。しかし、それでもなお私が危惧するのは、そういった「中立的立場」を取るということは、本来はより良い答えを出すための途上の立場(一旦の留保)であるはずなのに、現代の人々は、より良い答えを求めることを忘れて、その「中立的立場」を最終地点とはしてはいないかということである。自ら苦悩することを忘却し、より高次の自己を求めることを怠惰のうちに遊ばせるならば、それは「中立的立場」でも何でもなく、無惨な堕落でしかない。
ハンナ・アーレントは、その著『イエルサレムアイヒマン』において、ナチスホロコースト責任者アドルフ・アイヒマンを「悪の陳腐さ」という言葉で表現した。「悪」は「根本的ではなく、深みもない」と言うのである。アイヒマンはその戦争責任を問う裁判の間中、「自分はただの道具だった」と弁解し続けた。自ら考え行動するという「自由」を放棄し、権力者(自己より上位の者)の命令、世間の風向きにのみ自己を委ねた者は、その「責任」の場面においてもひたすら自己から逃げを打ち続けるのだ。
こういった自由と責任の放棄、すなわち自己の主体性の放棄は、一人官僚の世界(例えば東京都収用委員会の収容委員各人に見られるような)に止まらず、私たちの同世代たるところの、由来世界の希望であった世代であるところの、われら青年世代にまで顕著に見られる傾向であると言うことは、はっきりと銘記しておかなければならないと思うのだ。

死はドイツから来た名手かれの目は青い
かれは鉛の弾できみを撃つかれはきみを狙いたがわず撃つ
ひとりの男が家にすむおまえの金色の髪マルガレーテ
かれは犬どもをぼくらにけしかけるかれはぼくらに宙の墓を贈る
かれは蛇どもとたわむれるそして夢想にふける死はドイツから来た名手
おまえの金色の髪マルガレーテ
おまえの灰色の髪ズラミート
―『死のフーガ』パウル・ツェラン

「悪」は外からやってくる。渦になってやってくる。しかし、今でも? そう、確かに今でもそうかもしれない。しかし私たちがよっぽど恐れるべきは外からやってくる「悪」ではなく、自らのうちに潜む無関心、無批判、思考停止ではないだろうか。そういった諸々の態度こそが、アーレントがいうところの、「まさに表面を覆うカビのように広がり、全世界を荒廃させることがある」悪の姿ではないだろうか。
私は、高尾山のトンネル建設を白紙化することこそが、現代の私たちがなすべき「正しい選択」であると考える。その「正しい選択」を求めるために、もうひとつの「正しい選択」を主張する建設推進派の人々と語り合う場を設けたいと切に希望している次第である。より良い国を、より良い社会をともにつくっていくために。

正義は孤高を持することを要求する。
正義は怒りではなく悲しみを許す。
正義は脚光を浴びると言う快感を厳しく避けることを命ずる
ハンナ・アーレント