耳をいつも澄まして 17歳の僕がいた

無事に一週経ちましたね。日曜担当のナイトウです。前置きをだらだら書くのが面倒なので、先週の続きを一気に書き上げます。もちろん、文体は先週と同じく。それでは以下。
先週のエントリー
私達は高尾山を舞台にしたドキュメンタリー映画を制作している。目的はもちろん色々とあって、例えば高尾山の美しさを映像に記録するため、また環境破壊を世に問うため等々である。ただ、初発の意思というか、メインの動機というのはやはりあって、それは要するに「対立の妥協点を探る」というものであった。暴力的な開発もいけないが、ラジカルなだけの反対運動もやはり無謀であろう。ならば、その妥協点を示したいということである。さて、ここでようやく先週のエントリーに直結するが、私がMさんの映像を観てショックを受けたのは、この主たる目的の軽薄さというものに気付かされたからであった。
何故、開発に反対するのか? もちろん高尾の美しさは稀有なものであると思っているからである。映画を通して何をしたいのか? これももちろん問題提起を行いたいからである。では、実現可能性はともかくとし、仮にそれらが上手くいったとしよう。私達はそこで何を思うのだろうか。当たり前のように喜ぶだろう。美しい高尾山が守られた、と。ただ、私が思ってしまうのはそれで良しとできるのだろうかということである。
開発がストップしたならば確かに問題は終わるだろう。けれど、失われたものというのは決して元に戻らないのだな。Mさんが愛していた土地ははっきりと無残な姿を見せているし、開発を通して住民の方々が受けた心の傷というものもやはりあるだろう。繰り返しになってしまうが、それらは決して原状回復できないのである。映像の中でMさんやその奥様が語る高尾山への思いは非常に切実なものがあって、その不可逆性なるものに今さらながら気付かされたのだ。
もちろん当初の動機が極端に間違っているものだとは私は思わない。最悪の地点まで開発が進められるよりはリーズナブルな点で合意が示される方が遥かによろしい。少なくとも私は今でもそう思っている。ただ、決して忘れてはいけないのが、ある観点から見れば「最早取り返しがつかない」、そんなところまで開発は進んでいるということである。それを嘆くばかりでは仕方ないが、大前提として認識しておかなければいけないことなのだろう。
人の数だけドラマがあるとはよく言われることである。そしてそのドラマにはやはり舞台があって、つまり特定の土地に向ける人々のパーソナルな感情というものもやはり人の数だけあるのだろう。私達はあくまで外野の人間であり、高尾付近住民の方々と同じ立場になることはできない。ただ、上に示したような感情、切実な声に誠実に耳を傾け、それを少しでも映画に反映していくように意識していかなければならないのではないだろうか。私達は住民ではないが、やはり学者ではないのだから。
以上、「今更?」というような内容ではあるが、何となく考えを改めさせられた経験ではあったので、自戒も込めてここに記すことにした。明日は高尾山へ行ってきます。
担当:ナイトウ